Oct 03, 2010

開業に必要な事業資金について

私は現在、会社員として働いていますが、今後どのようなお店を自分で持っていると考えることができます。そこで気になるが事業資金です。私が興味を持っているパン屋などの営業に必要な事業資金300万程度と聞きますが、インターネットカフェの場合は1000万程度のようです。この事業資金を調達することから努力しなければならないと考えています。
会社設立に関連する問題につきましては、数回の商法改正により、比較的小規模の発起人でも会社設立が容易になったことと関連している。もちろん、まじめに、企業人には手続きが簡素化されているのは、本来は良いのだが、会社の金融犯罪などの皿に利用しようとする反社会的勢力には、ある意味隠れ蓑が施されてしまったのだ。
2011年1月20日、揚子晩報は、妻を遠隔地の病院へと送るため、家も車も売ってチャーター機を頼んだ男性のエピソードを報じた。

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2010年4月、黒竜江省ジャムス市に住む賈存来(ジア・ツンライ)さんの妻・林秀翠(リン・シウツイ)さんは突然、致死性の急性膵炎を患った。現地の病院で入院、治療を受けたが、病状は悪化するばかり。医師はもう手立てはないとさじを投げた。

それでも賈さんは諦めなかった。インターネットで調べ尽くし、南京軍区南京総医院普外研究所が膵炎治療ではトップであると知った。次は妻を南京へと運ばなければならない。車で運ぼうにも重症の膵炎患者に震動は禁物だ。

航空会社に申し入れたところ、座席数席分を外してベッドを運びこむことは許されたが、酸素ボンベの持ち込みが禁止された。しかし、林さんは酸素ボンベがなければ呼吸すらできない。鉄道もまた酸素ボンベは持ち込みが禁止されている危険物にあたるとして拒否した。

全ての手立てがなくなったかに思われたが、賈さんはわずかな望みを託し、国際的な医療支援企業インターナショナルSOSに申し入れた。解決策は一つ、チャーター機を用意すること。しかしその費用は27万元(約339万円)と高額。月給2000元(約2万5100円)の賈さんが容易に支払える金額ではない。妻を救うため、家も車も全て売り払ってどうにか金を用立てた。

賈さんの努力が実り、林さんの移送は無事に終わった。6月に受けた手術を成功し、10月には退院することができた。「少しは家事もできるようになりましたし、時々は息子のためにご飯も作れるようになりました」と林さんは話している。(翻訳・編集/KT)


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 昭和54年から3期にわたって大阪府知事を務めた岸昌氏が亡くなった。真面目で実直な性格で、関西国際空港の建設などに尽力し、「空港知事」と呼ばれた。元秘書は「気骨のあるタイプの政治家だった」と振り返った。

 「関西の将来の発展のため」として、関空建設にエネルギーを注いだ岸氏は、反対勢力の説得に奔走した。元秘書は、退任前日に建設中の関空島に立ち、感慨深げにしていた様子を覚えている。座右の銘は「一以貫之」。信じる道をとことんまで貫く実直な人柄だったという。

 関空建設の当時、貝塚市で市長を務めていた吉道勇氏は「建設中止になりそうになっていた関空を、国にかけあって具体化した人。地元の自治体ともじっくりと話し合いをしてくれた」と語った。

 また、岸知事時代に府議会議長を務めた酒井豊府議は「革新ムードの時代のなか、大阪を元気にしたいと、社会を作る原動力としての経済の大切さを訴えられていた」と話した。

 自らについて「私の欠点のひとつは感情の表現がへたなこと」と分析していたという岸氏。元部下の一人は「口数は多くはなかったが、温かみのある人だった」とその死を惜しんだ。

 橋下徹知事は「府政を担ってこられた中でのいい部分はしっかり継承し、今の時代に合わない部分は修正していきたい」と語った。

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 79年から12年間、大阪府知事を務め、財政再建や関西国際空港計画の実現などに尽力し、21日亡くなった岸昌(きし・さかえ)さん。旧内務・自治官僚出身ながら「役人らしからぬ人物」と評され、歴史や哲学に造詣の深い学者肌の知事だった。

 沖縄返還前の68年、「一番印象に残る仕事」という初代沖縄事務所長に就任。「占領下でも国会にものを言う機会をつくらなければならない。それが民主主義の基本」と、当時の内閣官房長官に直談判。「沖縄住民の国政参加特別措置法」の成立に奔走し、沖縄選出の国会議員を送り出す道を開いた。これが縁で大阪の沖縄県人会の準会員になり、毎年、県人会の新年会に招かれた。「沖縄の空や海、踊りが好きなんですよ」と語る“沖縄通”だった。

 その後、自治大臣官房長を務め、頂点の事務次官を目前にして、故・黒田了一氏を支える革新府政の副知事に。「私でなければ、他の誰にもこれは務まりません。だから絶体絶命で引き受けた」。4年間仕えたが、共産党単独与党になったのを機に辞任。黒田氏との“宿命の対決”を制して知事に就任した。

 生々しい政治の世界に身を置きながら、歴史や哲学に強い関心を持ち続けた。知事在任中は「人間は小さくて弱い。宇宙全体を支配する偉大な存在の前にぬかずく気持ちを持つことが大切」と話し、「イエスと釈迦(しゃか)の教えの融合をライフワークにしたい」と語っていた。

 私生活では、花づくりが趣味。「小さなけし粒ほどの種から見事な大輪の花が咲くことに、造化の偉大さを感じる」といい、自宅の庭いじりに時間を費やした。

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